健康経営を語る前に——経営者自身の健康という「リスク資産」
「健康経営」という言葉が、経営の語彙として定着しました。認定制度が整い、取得を目指す企業も増えています。従業員の健康を経営課題として扱う——その発想自体は、大きな前進だと思います。
ただ、産業医として企業の現場に関わってきた経験から、ひとつ気になっていることがあります。
その制度の網から、経営者本人がしばしば抜け落ちるということです。
従業員の健診受診率は追いかけているのに、ご自身の健診は何年か受けていない。社員には残業を減らせと言いながら、自分は深夜まで働いている。よくある光景です。そして、これは意志の弱さの問題ではなく、構造上そうなりやすいという話でもあります。
この記事では、健康経営という制度の枠組みを確認したうえで、なぜ経営者本人が抜け落ちるのか、そして何から手をつけられるのかを整理します。
健康経営とは、何を指す言葉か
健康経営は、従業員の健康管理を経営的な視点から捉え、戦略的に取り組むという考え方です。経済産業省がその普及を進めており、優良な取り組みを行う法人を認定する「健康経営優良法人認定制度」が2016年度に創設されました[1][2]。
制度は大規模法人部門と中小規模法人部門に分かれており、認定を受けた企業は、従業員や求職者、取引先、金融機関などから評価を得やすくなるとされています[2]。
背景にあるのは、健康を「コスト」ではなく「投資」として見る発想の転換です。この投資という視点そのものについては、経営者の「健康投資」——ヘルスケアをROIで考えるときでくわしく扱っています。
なぜ、経営者本人が抜け落ちるのか
制度が整っているのに、なぜ経営者自身は対象外になりやすいのでしょうか。理由は少なくとも3つあります。
理由1:法定健診の対象は「労働者」である
労働安全衛生法にもとづく一般健康診断は、事業者が「常時使用する労働者」に対して実施する義務を負うものとして定められています[3]。
つまりこの義務は、事業者が労働者に対して負うものです。代表取締役をはじめとする役員は、労働者に該当しない限り、原則としてこの義務の対象には含まれないと整理されます。(ただし、使用人兼務役員など就業の実態によって取り扱いは異なりますので、実際の判断は顧問の社会保険労務士や産業医にご確認ください。)
義務がないということは、受けないという選択が制度上とがめられないということです。誰からも催促されない。ここに最初の穴があります。
理由2:「休めない」という構造
体調の変化に気づいても、経営者にはそれを申告する相手がいません。従業員であれば上司に相談し、業務を調整するという回路がありますが、その回路の終着点に立っている人には、同じ仕組みが働きません。
さらに、代替がききにくいという事情もあります。「自分が止まると事業が止まる」という感覚は、多くの経営者が共有しているものだと思います。
理由3:出勤していれば「健康」だとみなされる
ここが、健康経営の議論で最も見落とされやすい部分です。
プレゼンティーイズムという概念があります。出勤はしているものの、体調不良によって本来のパフォーマンスが発揮できていない状態を指す言葉です。
米国の企業データを用いた分析では、10の健康状態について費用を推計したところ、多くの項目でプレゼンティーイズムに伴う損失が医療費そのものを上回り、関連費用全体の18〜60%を占めたと報告されています[4]。休んでいないから健康、という前提が成り立たないことを示す結果です。
経営者の場合、この見えにくさはさらに増します。休まないどころか、誰よりも長く働いている。だから「大丈夫だろう」と、本人も周囲も判断してしまいます。
長時間労働というリスク——数字が示すもの
働く時間そのものについては、大規模な研究があります。
60万人以上を対象とした系統的レビュー・メタ解析では、週55時間以上働く人は、週35〜40時間の人と比べて脳卒中のリスクが約33%高く、冠動脈疾患のリスクも約13%高いという関連が報告されています[5]。
これは集団としての統計的な関連であり、個々人の将来を予測するものではありません。また、長時間労働そのものが原因なのか、それに伴う睡眠不足やストレスといった要因を介しているのかについても、議論が続いています。
それでも、経営に携わる方にとって示唆的な数字だと思います。週55時間は、平日に11時間ずつ働けば到達する水準です。多くの経営者にとって、例外的な忙しさではないはずです。
働く時間の長さそのものよりも、そこで生じる負荷とその回復のバランスが問題になります。ストレス反応の仕組みについてはコルチゾールを下げる科学、回復の考え方については経営判断を鈍らせる疲労——経営者のための回復戦略、そして回復の土台となる睡眠については寝ても疲れが取れないのはなぜ?でそれぞれ扱っています。
「キーマンリスク」という言い方
経営の側から見ると、この問題は別の名前で呼ばれます。キーマンリスク——特定の人物に依存した事業構造が抱えるリスクのことです。
事業承継や資金調達の場面では、金融機関や投資家がこの点を実際に見ています。経営者の健康は、本人の私的な事柄であると同時に、法人の継続性に関わる要素でもあるということです。
このテーマは、事業承継や法人としてのリスク管理という実務の側面を含むため、稿を改めてくわしく扱う予定です。ここでは、健康経営を「従業員に対する施策」としてだけ捉えると、この視点が抜け落ちてしまうという点を指摘しておきます。
何から始めるか
大げさな取り組みでなくとも、着手できることはあります。
- まず、自分の健診を予定に入れる:義務がない以上、意識的に予定として確保しない限り実行されません。従業員の健診受診率を追うのと同じ厳密さで、ご自身の受診も管理項目に入れてみてください。
- 相談できる医師を平時に決めておく:何かあってから探すのでは遅くなります。産業医がいる規模であれば、経営者ご自身が相談できる関係を作っておくのも一つの方法です。
- 睡眠時間を記録する:主観的な疲労感よりも、記録のほうが正直です。一週間つけるだけでも、実態が見えてきます。
- 「代替できない業務」を棚卸しする:自分が数日離脱したときに何が止まるのかを書き出しておくことは、リスク管理であると同時に、休みやすさを作る作業でもあります。
- 数値の推移を線で見る:単年の結果ではなく、数年分を並べて傾きを見る。検査で測れること・測れないことの整理についてはアンチエイジングドックとはもご参照ください。
こうした「守り」に加えて、能動的に健康を組み立てるという発想についてはエグゼクティブのための「攻めの健康管理」入門で、加齢が意思決定そのものに与える影響については経営判断を鈍らせる「脳の加齢」で扱っています。
「後回しにしていた」——救急医の視点から
私は銀座数寄屋橋クリニックの院長を務める前、約20年にわたり国立の医療機関で救急医として勤務し、延べ約36,000人の患者さんの診療にあたってきました。現在は産業医としても企業の健康管理に関わっています。
深夜の救急外来には、経営に携わる方も運ばれてきます。そうした場面で、ご本人やご家族から驚くほど頻繁に聞いた言葉があります。
「忙しくて、後回しにしていました」
健診の案内は届いていた。少し前から違和感もあった。でも、来月には大きな商談がある、決算が近い、人が足りない——そうやって順番が繰り下がっていくうちに、繰り下げられなくなる日が来る。
救急の現場にいたころ、私はこれを個人の不注意だと考えていました。産業医として企業に関わるようになって、見方が変わりました。これは構造の問題です。 誰も催促しない、代わりがいない、休んでいないから健康だと見える。この3つが重なれば、多くの人が同じ選択をします。
だからこそ、意志ではなく仕組みで解く必要があります。予定に入れる、記録する、相談先を決めておく。地味ですが、構造に対しては構造で応じるのが確実だと考えています。
まとめ
- 健康経営は従業員の健康管理を経営的視点で捉える考え方で、経済産業省による認定制度も整備されています。ただしその制度は、原則として「労働者」を対象とする枠組みの上に成り立っています。
- 経営者本人が抜け落ちやすいのには理由があります。法定健診の実施義務が原則として労働者を対象としていること、体調不良を申告する相手がいないこと、そして出勤していればパフォーマンスが落ちていても見えにくいこと(プレゼンティーイズム)の3つです。
- 週55時間以上の労働と脳卒中・冠動脈疾患リスクとの関連を示した大規模研究もあります。これは集団としての統計的関連ですが、経営に携わる方には現実味のある水準です。意志ではなく仕組みで——予定に入れる、記録する、相談先を平時に決めておく、といった手当てから始めるのが現実的だと考えています。
会社の健康を語る立場にある方ほど、ご自身は後回しになりがちです。従業員に向けている基準を、一度ご自身にも当てはめてみていただければと思います。
当院はストレスフリー療法を専門に提供しており、ストレス反応や自律神経のはたらきに着目しながら、穏やかな温熱刺激を通じて体の土台を支えることを目指しています(研究知見にもとづく予備的なもので、はたらき方や結果には個人差があり、費用は全額自己負担となります)。その科学的な考え方についてはストレスと老化の科学で解説しています。
日々の負荷とのつきあい方にご関心のある方は、施術の流れや費用をまとめた当院のメニュー・料金ページもあわせてご覧ください。
よくある質問
Q. 会社の健康診断を、役員である自分も受けることはできますか?
A. 一般に、労働安全衛生法にもとづく健康診断の実施義務は「常時使用する労働者」を対象とするものであり、労働者に該当しない役員は原則として対象外と整理されます。ただし、実施義務がないことと、会社の費用で受けられないこととは別の問題です。就業の実態や社内規程によって取り扱いは異なりますので、顧問の社会保険労務士や税理士、産業医にご確認ください。
Q. プレゼンティーイズムは、どうすれば把握できますか?
A. 企業単位では、質問票を用いた調査で従業員全体の傾向を把握する方法が知られています。個人としては、主観的な感覚よりも記録が有効です。睡眠時間、業務の所要時間、判断に迷った回数などを一定期間つけてみると、体調とパフォーマンスの関係が見えてくることがあります。まずは睡眠の記録から始めるのが取り組みやすいと思います。
Q. 健康経営優良法人の認定を取れば、経営者の健康問題も解決しますか?
A. 認定は組織としての取り組み体制を評価するものであり、経営者個人の健康状態を保証するものではありません。むしろ認定取得の過程では従業員向けの施策に注力することになるため、ご自身のことが後回しになる場合もあります。組織としての取り組みと、経営者個人の健康管理は、別の課題として並行してお考えいただくのがよいと思います。
参考文献
- 経済産業省「健康経営」— 従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することに関する政策情報。出典
- 経済産業省「健康経営優良法人認定制度」— 優良な健康経営を実践する法人を顕彰する制度(2016年度創設。大規模法人部門・中小規模法人部門)に関する解説。出典
- 厚生労働省「労働安全衛生法に基づく健康診断を実施しましょう ~労働者の健康確保のために~」— 一般健康診断・特殊健康診断の種類と、対象となる労働者・実施時期を整理した資料。出典
- Goetzel RZ, Long SR, Ozminkowski RJ, Hawkins K, Wang S, Lynch W.「Health, absence, disability, and presenteeism cost estimates of certain physical and mental health conditions affecting U.S. employers」(2004年、Journal of Occupational and Environmental Medicine, 46(4):398–412)— 10の健康状態について医療費・欠勤・障害・プレゼンティーイズムの費用を推計し、プレゼンティーイズムが関連費用の18〜60%を占めたことを報告した研究。doi:10.1097/01.jom.0000121151.40413.bd. 出典
- Kivimäki M, Jokela M, Nyberg ST, et al.「Long working hours and risk of coronary heart disease and stroke: a systematic review and meta-analysis of published and unpublished data for 603,838 individuals」(2015年、The Lancet, 386(10005):1739–1746)— 週55時間以上の労働と脳卒中・冠動脈疾患リスクとの関連を報告した系統的レビュー・メタ解析。doi:10.1016/S0140-6736(15)60295-1. 出典
- Ryotokuji K, et al.「Effect of pinpoint plantar long-wavelength infrared light irradiation on subcutaneous temperature and stress markers」(2013年、Laser Therapy, 22:93–102)— ストレスフリー療法と皮下温度・ストレス指標に関する研究。
※上記の研究知見は集団を対象とした統計的関連や制度上の枠組みを示すものであり、個々の方の将来を予測したり、特定の検査・治療による効果を保証したりするものではありません。法制度の適用は個別の就業実態により異なります。ストレスフリー療法に関する研究は小規模・予備的なものを含み、はたらき方や結果には個人差があります。
本記事は健康に関する一般的な情報提供を目的としたものであり、特定の検査・治療・製品の効果を保証するものではありません。また法制度に関する記述は一般的な整理であり、個別の判断は専門家にご相談ください。自由診療の費用は全額自己負担となります。健康に関する不安がある場合は医療機関にご相談ください。体の状態には個人差があります。
監修医プロフィール
院長
佐藤 琢紀(サトウ タクノリ)
元国立国際医療研究センター国府台病院救急科診療科長。専門:救急医療、集中治療、ストレスフリー療法、全人的医療。経歴:東北大学医学部卒、順天堂大学大学院卒。命の最前線である救急医療に20年以上従事。「病気になる前に救う」ための戦略的医療を提唱し、2023年より銀座数寄屋橋クリニック院長に着任。救急科専門医、医学博士。
- メッセージ
- こんにちは、院長の佐藤琢紀です。救急医として約20年間、36,000人もの診療に当たってきました。「病気になる前に救いたい」という思いから、いまは予防と若返りの医療へ。専門的な話もできるだけ自分の言葉でやさしくお届けします。様々な情報が溢れる時代だからこそ、「元氣で楽しい人生」を送る“本物”のヒントを皆さまに提供してまいります。 こちらでお願いいたします。
