事業の投資判断であれば、多くの経営者は迷いません。投じる金額、回収の見込み、リスク——それらを並べて意思決定を下すことに慣れているからです。

ところが、対象が自分自身の健康になったとたん、その物差しは急に働かなくなります。人間ドックの追加項目、生活習慣を変えるための時間、休養にあてる週末。これらは「投資」なのか、それとも単なる「コスト」なのか。判断の基準がはっきりしないまま、後回しにされていく——そういう方は少なくありません。

近年、企業経営の文脈では「健康経営」「健康投資」という言葉が定着してきました。この記事では、健康を投資として捉えるという発想がどこから来たのか、そのROI(投資対効果)は実際どう評価されているのか、そして数字だけでは測りきれない部分に何があるのかを、できるだけ公平に整理します。

「健康投資」という言葉はどこから来たのか

健康を投資として捉える考え方は、企業経営の側から広がってきました。従業員の健康を経営課題として位置づけ、戦略的に取り組む——いわゆる「健康経営」の発想です。

日本でもこの流れは政策として後押しされており、経済産業省は2020年に「健康投資管理会計ガイドライン」を公表しています[1]。健康への支出を漠然とした福利厚生費としてではなく、「投資」として見える化し、その効果を測定・評価するための枠組みを示したものです。

このガイドラインで健康投資の効果指標として紹介されているのが、次の二つの概念です。

  • アブセンティーイズム:病気やけがによる欠勤・休職の状態。つまり「働けていない」ことによる損失。
  • プレゼンティーイズム:出勤はしているものの、何らかの不調を抱えたまま働き、本来の力を発揮できていない状態。

多くの企業にとって重要なのは、後者です。欠勤は目に見えますが、「出社しているのに、頭が働いていない」という損失は帳簿に現れません。それでも、判断の質・仕事の速さ・ミスの多さといったかたちで、確実に生産性を削っていきます。

これは組織の話であると同時に、経営者ご自身にも当てはまる話です。慢性的な疲労を抱えたまま重要な意思決定を続けることの意味については、経営判断を鈍らせる疲労でも触れています。

健康投資のROIは、実際どう評価されているのか

では、健康への投資は本当に「割に合う」のでしょうか。ここは正直にお伝えしたい部分です。研究の結論は、実は一枚岩ではありません。

初期の研究は、明確にプラスの結論を出していました。 2010年に発表されたメタ分析では、職場の健康増進プログラムに1ドルを投じると医療費が約3.27ドル、欠勤にかかるコストが約2.73ドル減少する、という推計が示されました[2]。この「3対1」という数字は広く引用され、健康投資という言葉が普及する後押しになりました。

しかしその後、より厳密な検証が行われました。 2019年に発表された大規模なランダム化比較試験では、160の事業所を対象に職場の健康プログラムの効果が18か月にわたって検証されました[3]。その結果、運動習慣や体重管理に取り組む人の割合といった自己申告の健康行動は改善したものの、臨床的な健康指標、医療費、勤務実績には統計的に有意な差が認められませんでした。

この二つの結果は、真っ向から対立するように見えます。ただ、それぞれが違うことを測っている、と理解するほうが実態に近いでしょう。初期の推計は、健康意識の高い人が自ら参加したプログラムを観察したもので、「もともと健康に関心がある人が集まった」という偏りを完全には除けません。一方、ランダム化比較試験はその偏りを取り除ける代わりに、18か月という期間で、集団全体の平均として効果を見ています。生活習慣がもたらす健康上の変化は、しばしばそれより長い時間軸で現れるものです。

つまり現時点で誠実に言えるのは、「健康への投資に確実な金銭的リターンがある」とも「ない」とも断言できない、ということです。この不確かさを認めたうえで、それでも投資として考える意味があるのか——ここからが本題です。

ROIという物差しでは測れないもの

ROIという考え方には、前提があります。投じたものと得られたものを、同じ単位(多くは金額)に換算できる、という前提です。

事業投資であればこれは成り立ちます。しかし健康については、この前提が途中で崩れます。

第一に、失われるものの多くは金額に換算できません。 病気によって仕事を離れる期間、判断の質が落ちたまま下してしまった決断、家族と過ごせたはずの時間。これらを医療費という単位に押し込めた瞬間、本来いちばん大きな損失が視界から消えてしまいます。

第二に、リターンは「起きなかったこと」として現れます。 予防の効果は、何も起きなかったという静かなかたちでしか姿を見せません。回避された病気は、経験されないがゆえに実感されない。これは予防医学に共通する構造的な難しさで、予防医学としての自由診療という選択でもふれた論点です。

第三に、経営者個人にとってのリスクは、平均では語れません。 集団全体の平均としてのROIがゼロに近くても、個人の水準では話が変わります。事業の意思決定が特定の一人に集中している組織にとって、その一人が長期に離脱するリスクは、確率が低くても影響が甚大な——いわゆるテールリスクです。経営の言葉に置き換えるなら、健康への支出はリターンを狙う投資というより、保険やリスクヘッジに近い性格を持っています。

それでも「投資」として考える意味

以上を踏まえたうえで、健康を投資として捉える発想には、なお実践的な価値があると考えています。理由は三つあります。

一つめは、意思決定の枠組みが変わることです。 健康を「余裕があればやること」ではなく「配分すべき資源」として扱うと、後回しにされにくくなります。多忙な立場ほど、この枠組みの違いは効きます。この考え方そのものについてはエグゼクティブのための「攻めの健康管理」入門でくわしく解説しています。

二つめは、測れるものは測れる、ということです。 健康の価値すべてを金額に換算することはできませんが、体の状態そのものを数値で把握することはできます。血圧・血液検査といった基本的な指標に加えて、近年は生物学的年齢という考え方も研究が進んでいます。数値で現在地を知ることは、意思決定の材料としての意味があります。詳しくは生物学的年齢はどう測る?をご覧ください。

三つめは、時間軸を長くとれることです。 経営者は、四半期ではなく十年単位で物事を考えることに慣れています。健康投資の効果が短期の試験で見えにくいのは、効果が存在しないからとは限らず、観察期間が短いからかもしれません。長い時間軸で考えられることは、この領域ではむしろ強みになります。

なお、自由診療として提供される検査や施術は、費用が全額自己負担となります。効果や適応には個人差があり、支出に見合う結果を保証するものではありません。ご検討にあたっては、この点をはっきり踏まえたうえで判断されることをおすすめします。

「失われるのは医療費ではない」——救急医の視点から

私は銀座数寄屋橋クリニックの院長を務める前、約20年にわたり国立の医療機関で救急医として勤務し、延べ約36,000人の患者さんの診療にあたってきました。

救急の現場には、経営の第一線に立つ方が突然運ばれてくることがあります。前日まで会議を仕切り、契約に署名し、組織の判断を一手に担っていた方が、数時間後にはベッドの上で意識を失っている。そういう場面を、何度も経験しました。

そこで失われるのは、医療費という数字ではありませんでした。その方にしか下せなかった判断が止まり、その方にしか語れなかった構想が宙に浮き、そして何より、まだ続くはずだった時間が削られる。ご家族が待合室で立ち尽くす姿を前にして、これをROIという言葉で語ることの無力さを、私は繰り返し感じてきました。

だからこそ私は、健康投資を「元が取れるかどうか」で語りたくはありません。数字で測れる部分は誠実に数字で示し、測れない部分については測れないと申し上げる。そのうえで、ご自身の意思決定の主体を守るという観点から考えていただくのが、この領域のもっとも公平な向き合い方だと考えています。

まとめ

  • 「健康投資」は企業経営の文脈から広がった考え方で、経済産業省のガイドラインでは、欠勤による損失(アブセンティーイズム)と、出勤しながら本来の力を発揮できない損失(プレゼンティーイズム)が効果指標として示されています。
  • 健康投資のROIをめぐる研究は結論が分かれています。初期のメタ分析は1ドルあたり約3.27ドルの医療費削減を推計しましたが、その後の大規模ランダム化比較試験では18か月の時点で臨床指標・医療費に有意差は認められませんでした。確実な金銭的リターンを断定できる段階ではありません。
  • 一方で、失われるものの多くは金額に換算できず、リターンは「起きなかったこと」として現れ、個人にとってのリスクは平均では語れません。健康への支出は、リターンを狙う投資というより、リスクヘッジに近い性格をもつと考えられます。

健康を投資として捉える発想の本当の価値は、期待できる利回りの高さではなく、「後回しにしない」という意思決定の枠組みそのものにあります。数字で測れる部分は測り、測れない部分は測れないと認めたうえで、ご自身の判断で資源を配分していただく——それが、この領域における現実的な向き合い方だと考えています。

当院が行うストレスフリー療法も、穏やかな温熱刺激を通じて自律神経や血流といった体の土台を支えることを目指す取り組みです(研究知見にもとづく予備的なもので、はたらき方には個人差があり、費用は全額自己負担となります)。その科学的な考え方についてはストレスと老化の科学で解説しています。

日々のパフォーマンスや細胞レベルの若々しさにご関心のある方は、施術の流れや費用をまとめた当院のメニュー・料金ページもあわせてご覧ください。


よくある質問

Q. 健康投資には、どれくらいの金銭的リターンが期待できますか?

A. 明確な数字をお示しすることはできません。初期のメタ分析では1ドルの投資につき約3.27ドルの医療費削減が推計されましたが、その後の大規模ランダム化比較試験では18か月の時点で医療費や臨床指標に有意な差は確認されていません。研究の結論が分かれている段階であり、「元が取れる」と断定できるものではないとご理解ください。

Q. プレゼンティーイズムとは、具体的にどのような状態ですか?

A. 出勤はしているものの、何らかの不調を抱えたまま働き、本来の力を発揮できていない状態を指します。欠勤(アブセンティーイズム)と違って表面には現れませんが、判断の質や作業効率の低下というかたちで生産性に影響すると考えられており、経済産業省の健康投資管理会計ガイドラインでも効果指標のひとつとして紹介されています。

Q. 忙しくて時間がとれません。何から始めるのが現実的ですか?

A. まずはご自身の現在地を数値で把握することが、判断の材料として役立ちます。定期的な健康診断を確実に受けること、そのうえで気になる項目を掘り下げること——順序としてはここからです。生活習慣の見直しを一度にすべて行う必要はなく、睡眠時間の確保や起床時刻の安定など、負担の小さいものから積み上げるほうが続きやすいと考えられます。

参考文献

  • 経済産業省「健康投資管理会計ガイドライン」(2020年6月公表)— 健康経営における健康投資の見える化と効果測定の枠組みを示した公的ガイドライン。アブセンティーイズム・プレゼンティーイズムを効果指標の例として記載。出典
  • Baicker K, Cutler D, Song Z.「Workplace wellness programs can generate savings」(2010年、Health Affairs, 29(2):304–311)— 職場の健康増進プログラムに関する既存研究のメタ分析。1ドルの投資につき医療費約3.27ドル、欠勤コスト約2.73ドルの削減を推計。doi:10.1377/hlthaff.2009.0626. 出典
  • Song Z, Baicker K.「Effect of a Workplace Wellness Program on Employee Health and Economic Outcomes: A Randomized Clinical Trial」(2019年、JAMA, 321(15):1491–1501)— 160事業所を対象としたクラスターランダム化比較試験。自己申告の健康行動は改善したが、18か月時点で臨床指標・医療費・勤務実績に有意差は認められなかった。doi:10.1001/jama.2019.3307. 出典
  • Kamada Y, Sato T, Kessoku T, Sumida Y, Ono M, Ryotokuji K.「Effects of laser acupuncture (stress-free therapy) on blood liver function indicators」(2025年、Laser Therapy, 32:403)— ストレスフリー療法に関する185例の観察研究。doi:10.4081/ltj.2025.403.

※上記の研究知見は健康投資や職場の健康増進プログラムに関する評価を示すものであり、特定の検査・治療による経済的利益や健康上の効果を保証するものではありません。ストレスフリー療法に関する研究は小規模・予備的なものを含み、はたらき方や結果には個人差があります。


本記事は健康に関する一般的な情報提供を目的としたものであり、特定の検査・治療・製品の効果を保証するものではありません。自由診療の費用は全額自己負担となります。健康に関する不安がある場合は医療機関にご相談ください。体の状態には個人差があります。

監修医プロフィール

院長

佐藤 琢紀(サトウ タクノリ)

元国立国際医療研究センター国府台病院救急科診療科長。専門:救急医療、集中治療、ストレスフリー療法、全人的医療。経歴:東北大学医学部卒、順天堂大学大学院卒。命の最前線である救急医療に20年以上従事。「病気になる前に救う」ための戦略的医療を提唱し、2023年より銀座数寄屋橋クリニック院長に着任。救急科専門医、医学博士。

メッセージ
こんにちは、院長の佐藤琢紀です。救急医として約20年間、36,000人もの診療に当たってきました。「病気になる前に救いたい」という思いから、いまは予防と若返りの医療へ。専門的な話もできるだけ自分の言葉でやさしくお届けします。様々な情報が溢れる時代だからこそ、「元氣で楽しい人生」を送る“本物”のヒントを皆さまに提供してまいります。 こちらでお願いいたします。